帝都ファルカを色にするのであれば、赤銅あるいは鈍色だろう。豊かな自然を彷彿させる緑色が極端に少なく、人造的な色が多い。
煉瓦造りの背の高い建物がゴチャゴチャとひしめき合い、都市西側には轟音と粉塵を上げて蒸気機関車が走っている事から、どこか窮屈な印象を感じてしまうものだった。
製錬や機械化学と工業技術が発展した経済的水準も高い先進国、ツァール帝国。
その中心地なのだから、この景色はさも当たり前の事には違いないだろう。──空気は悪く、人が多い。労働者を寄せ集めたファルカの朝早い。
早朝五時に市街中心部に高々と聳える古びた大聖堂の鐘の音が響き渡り、皆その音で一日を始める機械的な街だった。そして今現在……ファルカの朝が始まって数時間。
とっくに空は青に色付いて、太陽も昇ったにも関わらず〝埃っぽい街〟が災いし、部屋に差し込む初秋の陽光はあまりに弱々しかった。暗緑色のカーペットにクリーム色の壁。弱々しい陽光の差し込む質素な部屋の中、カリカリと羊皮紙にペンを走らせる音だけが静謐な空間に反響する。
「それで、君はまた暴力を振るったのか?」
──これで五度目だ。なんて、付け添えたのは初老の男だった。
彼は、大きなため息を吐きながらペンを置き、正面に立つ茜髪の少女をギロリと睨み据える。「もう! だから、どう考えても正当防衛だって言っているじゃない!」
茜髪の少女、キルシュ・ヴィーゼはジトリと若苗色の瞳をジトリと細めて、初老の男を睨み返した。
まるで、豪雨に打たれたように、彼女はずぶ濡れだった。
茜色の艶やかな髪は水に濡れてぺったんこ。 クリーム色の襟付きブラウスに焦茶のスカート、革のコルセットとブーツ──パトリオーヌ女学院の制服は頭の先からつま先までびっしょりと濡れ、彼女の華奢な身体にぴたりと張り付いていた。唇をへの字に曲げて、眉を釣り上げたその面持ちは、明らかな怒りに満ちていた。
その顔には「私は悪くない!」と書いてある。「だからね、私は何もしていないわ! 悪くないの!」
この部屋に来て、数度目の台詞をキルシュは甲高く叫ぶと、初老の男──この女学院の最高責任者、学院長はこめかみを揉んで深いため息を吐いた。事の始まりは、朝の登校時に遡る。
……いつも通りの登校中。寮から校舎に入ろうと外階段を上っている最中、頭の上から大量の水を降ってきた。登校早々についていない。いったい何事か。
びしょ濡れになったキルシュが唖然としていれば『徒花の水やり』とケラケラとせせら笑う複数頭上から落ちてきた。見上げれば、踊り場の柵にはいつもの、性格ブスの集まりがいた。このパトリオーヌ女学院は貴族の娘、豪族の娘、裕福な商人の娘と……国中の令嬢を寄せ集めた学院だ。
砕けて言ってしまえば、高飛車で陰湿な〝お嬢様気質〟の者がとても多い。そんな嫌がらせ主犯は、西方に領地を治める侯爵家の娘、ブリギッタ。
ブリギッタの取り巻きには北東の領地を治める裕福な伯爵家の娘カロリンに、ツァールでは名の知れた貿易商令嬢エルゼ。それから鉄道社の令嬢カレン……と数名が団子のようにくっついている。謂わば金魚の糞のような取り巻きだ。 確かに、この令嬢たちはみんな美しく、聡明で頭は良い。それはキルシュも思っている。だが、皆性格はヘドロの如く汚く不細工。相当な性格ブスだ。
家柄を笠に着た弱い者いじめは日常茶飯事。
成績の悪い者は平然と蔑まれ、悪口はもっぱら本人の目の前で堂々と。──退学に追い込まれた生徒もいたほどだ。
実際、彼女たちのやり口は粘着質で陰湿。
だからこそキルシュは「ヘドロ」と呼ぶに相応しいと思っている。そんな事を考える自分も同じ穴の狢か──と苦笑しつつ、同類にはなりたくないと唇をへの字に引き結ぶ。
もっとも、キルシュ自身も伯爵家の養女。
南部辺境、レルヒェ地方のヴィーゼ伯爵家に籍を置く以上、学院に通う資格は十分にある。むしろ、入学できている時点で、それは証明済みなのだ。
学院規則にも「爵位や出自による差別をしない事」と明記されている。
ただし──キルシュが伯爵家の養女である事は周囲に知られていない。 仲の良い相手がいない以上、言う機会もなかったのだ。それでも執拗に嫌がらせを受ける理由──それには、キルシュにも心当たりがあった。
それなのに、どうして陰湿な嫌がらせをされるのか……それはキルシュも二つ身に覚えがあった。
一つは、自分が〝普通〟ではない事。 生まれつき“呪法”を扱える者──〝能有り〟として生まれた。右手の甲には、花や蔦を象る幾何学模様の紋様。
それは能有りである事の何よりの証。──ツァール帝国建国以前のツァイト王朝。
その支配階級であった聖職者たちは皆、能有りだった。だが今では「忌むべき暗黒期」として忌避され、能有りは“穢れた魂の継承者”とされて迫害されている。
こんな力、望んだわけではないのに──。
理不尽極まりないとキルシュは思っていた。そして、二つめの理由。
それは──自分が劣等生である事。成績最下位。特に理数学系は壊滅的だった。
努力はした。質問もした。けれど、迫害される側の自分に対して、教師たちが親身になる事はなかった。そうして結局、自分には才能が無いのだと、諦めてしまった。
────実を結ぶ花の名を持つ癖に、努力しようが追いつけず〝結果〟という実を結ぶ事も無い無様さ。能有りという忌まれた存在で、極めて無駄な存在。
よって〝徒花〟……。
いったい、どこの誰が呼び始めたかも分からないが、こればかりは『上手く付けたものだ』と言われる本人さえも感心していた。
けれどキルシュは、負けん気だけは誰にも負けないと自負している。
やられたら、必ずやり返す。
どこの名家の令嬢であろうと、容赦なく噛みつく性質だった。孤立は、確かに寂しい。
だが、違うというだけで見下され、いびられ、頭を下げるなんて──ごめんだ。だから、今朝。水をかけられたあと、彼女は〝力〟を使って復讐した。
その内容は、足を引っかけて、転ばせただけ。それだけの事だった。だからこそ、キルシュは思っていた。自分は間違っていない、と。
にもかかわらず、自分だけが学院長室送りとは、理不尽にもほどがある。
「学院長、だから私は悪くないって言ってるじゃない」キルシュは前のめりになって机を叩く。学院長は目を細めて首を振る。
「君は、呪法を使って同級生たちを殴ったと聞いたが」 「登校早々に水をかけてきたからよ! こんなにされてるの! 私がした事なんて可愛いものよ!」──見れば分かるでしょう!
青筋を立てて声を荒げたその瞬間。キルシュの握り締めた拳から、蔦が芽吹き、淡紅の花がふわりと咲いた。その夏の盛り。キルシュとケルンはツァール西部の地、メーヴェを後にした。 向かう先は海の向こう。西の島国、イフェメラだった。 帝都炎上から半年以上。 混乱の最中、二人の生存が世に知れ渡れば、再び騒乱の種になってしまうだろう。 それを避け為にも、静かな隠居の地を求めて、今こうして波に揺られていた。 あの日から、二人はブリギッタが治める西部領地の屋敷に身を潜め、使用人として暮らしていた。 ──キルシュに関しては、生活力に長けていた事もあり、家事において他の使用人に劣る事はなかった。 一方のケルンも、頭の回転が早く、計算や帳簿付けの手腕に優れており、領地の管理を多忙にこなすブリギッタにとって、大変心強い助けとなっていた。 だが、いくら優秀であろうと、若い恋人同士というのはなかなか隠し切れないものがある。 暇さえあればケルンがキルシュにちょっかいをかけ、彼女を膝に乗せては愛でる始末。休憩時間にはおやつを「あーん」と食べさせ合い、夜には寄り添ってバルコニーでいちゃいちゃと月を眺める。 ──つまるところ、目に余るほどの馬鹿っぷるだったのである。 そうしてとうとうブリギッタは痺れを切らし、ある日、二人を呼び出し分厚い封筒を渡した。 そこには金色の文字でこう記されていた。『使用人(仮)退職金』と……。 その額は、慎ましく暮らせば三年は生きていける程。 労働力に見合わないあまりに多すぎる退職金にキルシュが「正気?」と猛抗議をしたのは言うまでもない。「うるさいわね! 私はあんたより頭が良いのは存知でしょう? こっちは貿易で儲けのある金持ち貴族よ。黙って貰っておきなさい」 と、一蹴りされてしまったのである。 しかし、真意は後にユーリから知らされた。 「見ていて苛立つ」というのも、あながち嘘ではなかったが―― 本当のところ、ブリギッタが気に病んだのはケルンの立場だった。 存在を隠され、間引きされた筈の第一皇子。 皇帝が退位を表明した今、もし彼の存在が明らかになれば、次期皇帝の権限すら持つ可能性がある。 彼自身は「そんな器じゃない」と、謙遜していたが……だからこそ、二人がツァールに居続ける事は不安材料だったのだ。「……事実、俺たちがツァールに居るだけで、また国が揺れる恐れはある。ブリギッタ嬢の厚意に甘えよう
※ 永遠の夜、ナハトを討った後の記憶は、あまりにも曖昧だった。 それはまるで、どこまでも長い夢を見ていたような、静かでゆらゆらとした時間だった。 ──きっと、自分は死んだのだろう。キルシュは、そう理解していた。 視界は真っ黒に塗り潰されて、どこにいるのかも分からなかった。 意識だけはしっかりとあるのに、目は見えず、声も出せず、身体も動かせなかった。 ただひとつ、分かっていた事がある。 まるで凪いだ水面をたゆたっているような、静かで優しい感覚。 母親の胎内の記憶がもしあるなら、きっとこんなだろうなとでもいった感覚だ。 それでも確かだったのは、自分の手が誰かの手と固く繋がれていた事だった。 無骨で温かく、どこか懐かしい手のひら。 目に見えなくとも、声が聞こえなくても、それがケルンの手だと、キルシュには分かる。『もう離さない、ずっと一緒』 声が聞けずとも、そう言われているような気がしたのだから。 それだけで、どこか安心できて、怖さは不思議と感じなかった。 けれど──夢から目覚める直前、キルシュはクレプシドラの声を聞いた。『我は未熟な神故に、変則的な使徒を二つも留め続ける事はできない。……だが、お前たちの生を強く望む者がいる。再生の聖痕と、芽吹きを支える光の聖痕を引き換えに、お前たちをあるべき場所へ還そう』 そんな言葉だったと、ぼんやりと思い出す。 そして、どれほどの時が過ぎたのかも分からぬまま──キルシュは誰かの声に呼び戻されるように、ゆっくりと意識を取り戻した。 目を開けた時、そこは見覚えのない部屋。 そして、目の前では散々自分をいびってきた筈のクラスメイトが、大粒の涙を溢して抱きしめていたのだ。 それはまるで、夢の続きを見ているようだった。 けれど、現実は確かに動いていた。 帝都は本当に炎に包まれたのだと知らされた。──あれから、もう半年が経っているらしい。 自分は、西部領地
書き物机に向かい、帳簿に向かうブリギッタは深いため息をつきながら、眉間を揉む。 帝都炎上からというもの、女貴族たちは皆、忙しない日々を送っていた。 本来、ツァールの女貴族の務めといえば──花を愛で、刺繍に親しみ、教会での慈善バザーに顔を出す事。特に何もせずとも聡くある事。これが仕事だ。 けれど、帝都が崩れて以来、領主である男性たちはみな帝都の復興の為に出向き、留守を預かるのは女たちとなった。 しかし、女手さえ足りていない領では、聖職者や名門家が代わりに政を担っているとも聞く。 ──それでも、やはり「学識こそ宝」と教えられてきたのは間違いではなかった。 計算ができる事が幸いし、数字に纏わる事務作業をそつなくこなせる事で、今の自分をどれほど助けているか。 だが、問題は量だった。 支援物資、避難民への義援金、それらに関する出納帳が山積みとなって、日が暮れても帳簿の終わりは見えなかった。 (……さすがに、くたびれるわね) ブリギッタは癖も無い青肌色の髪をくるくると指に絡めながら、暗算に集中していると──バタン、と扉が荒々しく開く音がして、思わず眉をひそめる。 見なくても誰が入って来たか分かる。 乱れた金髪に碧眼、息を切らしながら駆け込んできたのは──帝都からともに逃れてきた南部辺境地・ヴィーゼ伯爵家の使用人、ユーリだった。 「ブリギッタ嬢、大変だ!」 彼はまるで火急の知らせでもあるかのように声を張り上げる。 ──彼とは、帝都崩壊の最中に知り合った。学院で負傷したブリギッタを、キルシュの命を受けて、メーヴェの領地まで送り届けてくれた恩人だ。 その後、帰郷するように言ったものの、彼は「神堕ろしの証人」だと語り、南部への帰還をためらった。 恩義と恐れ。そのどちらもが彼の胸にあったのだろう。結果、彼は西部に留まり、屋敷の雑務を手伝ってくれていた。 まして、現在は、宗教改革が起きて、南部辺境地はまさに今騒動の渦中に置かれている。〝帰りた
推定死亡者数、八百人以上。 行方不明者、およそ千名。 帝都炎上から、半年。ツァール帝国は初夏の日差しが差し込んでいた。 だが、国全体はいまだに揺らいだまま。 ツァール聖教、そして国の統治そのものが、足元から崩れていった。 国教は邪教崇拝だった。 聖職者たちや諸派の上位に就いていた者たちが次々と、自らの罪を告白し懺悔を口にした。 その中心に立っていたのは、南方辺境を治める辺境伯イグナーツ・ヴィーゼである。 彼が従っていたという《蝕(エクリプセ)》と呼ばれる諸派は、一般にはほとんど知られていなかった。 それは、まるで富裕層だけが入会できる会員制組合のように、水面下でひっそりと活動していたという。 彼らは語った。 来るべき戦乱と国の衰退を見越し──能有りたちを生贄に〝神堕ろし〟という、悍ましい儀式に手を染めたと。 その結果として、帝都に現れた禍々しき機械仕掛けの偶像が現出したのだと、イグナーツは語った。 信じ難い話ではある。 だが、目の当たりにした人々の多さが、疑念を打ち消した。 更には、その信憑性に拍車をかけたのは、皇帝陛下自身の懺悔だった。 ──陛下は、第一子が能有りであった事から、精霊返しを行っていたと、衆目の前で告げたのである。 ……その子息が、生きている事を知り、機械仕掛けの偶像の器に捧げたのだと。 更に、過激諸派《蝕》の支援を行っていた事も……。 邪教に手を染め、罪の無い犠牲を多く出した。もはや、この国の上に立つ資格は無い。 陛下は事態が落ちつき次第、退位を宣言した。 だが、災いを呼んだ《蝕》、更にはそれを支えた皇帝すら裁ける者は、もはやこの国に存在しなかった。 なぜなら、誰もが同じく邪教に呪縛され、盲信の果てにあったからだ。 洗脳が解けた今となっては、皆が等しく同じ立場に違いない。 帝国性は廃止となるだろう。公国となる
片や、正面からナハトに対峙したキルシュは、うつむきながらも小さく笑い出した。 「ねぇ……頭が悪い私が言うのもなんだけど、憎悪の神って随分と知能が低いのね? 貴方、私の本当の願いをまるで見抜けてない。私は彼の教えてくれた《希望》だけは、絶対に忘れられない」 ──だから、私は貴方に《心》なんて渡さない。 強く言い放ち、顔を上げたキルシュは、瓦礫の上に倒れていたファオルに鋭い視線を投げる。 「いつまで寝たままでいるの! 甘えないで! あなたの目と耳は、今まで何を見て、何を聴いてきたの? 私とケルン、二人分の信仰と《心》じゃ、まだ足りないのかしら!」 ──目覚めなさい、クレプシドラ! キルシュの叫びに応えるよう。ファオルの身体がまばゆい金の光に包まれ、渦巻く粒子がひとつの人影を形づくっていく。 『我は未熟で、不甲斐ない神。だが、その声は確かに聞き届けた』 厳かだが、どこかファオルに似た子どもの声だった。 やがて光が晴れると、翠の髪と黄金の瞳を持つ、小さな人の姿が現れた。 白を基調とした短いローブには、繊細な金の幾何学模様が縫い込まれている。耳にはファオルの瞳に似た赤い飾りが揺れ、胸元には金の砂が詰まった砂時計──それが、刻を司る神・クレプシドラだった。 ──亡きツァイト王国で信仰されていた古の神。男とも女ともつかない、まるで人形のように愛らしい子どもの姿をしていた。 「この国なんてどうでもいい。でも、罪もない人たちが苦しむのはもう嫌。未来には希望がある筈。憎悪を、闇を、私は打ち砕きたい」 ──その加護を、私に。……《心》は、二つじゃ足りないの? 問いかけるキルシュに、クレプシドラは静かに首を横に振る。 『加護は与えられる。だが、おまえは生きた人間だ。己の《心》を我に委ねれば……その身体は持たぬ。しかも我が身の一部、《聴く者》の願いは──』 途端にクレプシドラの耳飾りは赤々と光った。 これがファオルの本当の姿なのだろう。 きっと『自己犠牲などしないと言ったじゃないか』と言っているような気がした。 ファオルの泣きじゃくる声が自然と頭に過る。 それを悟ったキルシュは、クレプシドラに歩み寄り、赤い耳飾りに唇を寄せた。 「馬鹿ね。私だって自己犠牲なんてくそくらえよ? ただ、こんな迷惑な邪神を野放しにしておきたくな
直後、機械仕掛けの偶像は、花びらが舞うようにキラキラと光に還っていった。 残されたのは、彼──ケルン自身。 侵蝕はすでに深く進んでいたものの、人の姿を取り戻した彼は、釣り上がった黄金の瞳を細め、無骨な腕でそっとキルシュを抱き寄せる。 「キルシュに、最後のお願いがある。……俺の《心》を全部、貰ってくれないか。ひでぇ事、言ってるのは分かってる。これが最後の我が儘だ……その先、別の誰かと結ばれたっていい。でも俺、キルシュにだけは、忘れられたくない」 どこで息をしているのかも分からない、消え入りそうな声だった。 彼は、何度もキルシュに謝罪の言葉を繰り返した。 キルシュは、彼の手を強く握りしめ、何も言わずに頷いた。 拒む理由が見当たらなかった。 否、受け入れるべきだと、はっきりと思えた。 これが運命で、これが生きる意味なのだと……。 キルシュは、か細い息を上げる彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。 もう力が残っていないのだろう。彼はただ、やんわりとキルシュの唇を食む。 その瞬間──キルシュの脳裏には、夥しい彼の記憶が一気に流れ込んできた。 ──レルヒェの市場へ使いに出た少年時代。 盗みを疑われた彼を庇ってくれた、茜髪の小さな少女がいた。 子供たちの中で一番のチビ。強気なくせに、すぐ泣いてしまう。 その少女の名は、熟れた桜桃を思わせる茜色の髪にふさわしく、キルシュといった。『ケルンに意地悪しないで!』 稚い声で泣き叫んだあの日から、彼は彼女に惹かれていた── 素直で、純粋で、笑った顔が格別可愛い。そんなキルシュが初恋だった。 時を経て、礼拝堂のステンドグラスの下で、永遠の友情を誓い合い、未来では恋人として生き、必ず守ると誓った事。 運命に引き裂かれたあの日の、底知れぬ絶望と憎悪。 啓示として渡された未来の断片……自ら選んだ運命の事。